レンブラントは絵画で一財をなし、それを浪費し最後は無一文で亡くなったという非常に波瀾万丈な人生を送った画家ですが、彼はその都度、その都度(青年期、絶頂期、一文無しになって亡くなる前)で自画像を結構描いています。
私が最も気に入っているのは亡くなる前のランニングシャツ姿の自画像です(亡くなる前はろくな所持品はなかったらしい)。今までの自分の人生を内面的、自省的に観察し、それを極めて客観的かつ芸術的に、絵筆という表現手段を使ってあそこまで冷静・冷徹に描けることに芸術家という職業のもつ崇高さ・素晴らしさそして残酷さを感ぜざるえません。
ついでにもう一つのお奨めはマルティン・ルターの肖像画です。これは有名な画家が描いたものではないのと思いますが、青年ルターが宗教改革を唱えた頃の、思いつめて頬のこけた肖像画から始まってプロテスタント宗教家として一時代を得た後の、ぶくぶく太った(一言で言えば醜悪な)肖像画を通してみると、当初の志から時代を経るにつれて、きっと世俗的な欲望をこの人は追い求めたのではないかしらんと思ってしまいます。
これに比べるとシュバイツァーやサン・フランチェスコはホントにすごかったんだなぁと思います。日蓮上人もそうですよね。
とまあ、寄り道をしたうえで本題のラス・メニーナスなのですが、絵自体はGOOGLEで「ラス・メニーナス」とすれば瞬時に見ることができるので、ここまで駄文にお付き合い頂いた方は行きがけの駄賃に是非ご覧下さい。
絵そのもののテクニックは勿論素晴らしいものであり、そのことを特に記すことはありません。どこが他の絵画と決定的に違うかというと、視点が重なっていることにつきます。
普通の肖像画は画家が目の前にある対象物をキャンバスに写し取るわけで、従って画家の視点を鑑賞者が共有することになるわけですが、ことラス・メニーナスに関しては、この視点がもう一つあります。すなわち画家の視点、鑑賞者の視点に加えて、対象物である王と王妃の視点が加わります。これら3つの視点を考えることにより始めてこの絵が落ち着いて見れるのです。
もう少し詳しく説明しますと、絵は中央に王女と道化や召使いの女達が描かれ、その左横に画家であるベラスケス自身がカンバスに向かっている場面が描かれています。絵の後景に鏡が描かれ、そこに王と王妃の姿がぼんやりと描かれています。
この情景はベラスケスが王と王妃の肖像画を描いている場所に、王女がやって来、その王女達を王と王妃が眺めているという図柄なのですね。
そうすると、この絵は対象物たる王と王妃がキャンバスの外にあることになり、最初にこの絵を見ると鑑賞者は自分の視点が定まらないことになるのですが、後景の鏡に王達の姿を見ることと、ベラスケスの自画像が描かれていることから、始めて鑑賞者の視点が王達のそれと同じものであるということが認識できるわけです。またその視点は当然ながら画家たるベラスケス自身の視点でもあるわけで、ここでは通常の鑑賞者の視点=画家の視点という等式が破られ、そこに対象物の視点すらも混入するという不思議な絵画空間を構成しているわけです。
ということをミッシェル・フーコーがもっと構造主義的(?)に分析していますが、素人目にもこのような絵画空間の捉え方はベラスケス以前・以後にもないように思います。
この絵は多くの画家のインスピレーションを刺激したようで、ピカソが何枚もこの絵を題材に描いています(ベラスケスのそれとは全く別物に見えますが)。
美学的な基準での好き嫌いはあるでしょうが、例えばラファエロの大公の聖母やダビンチの聖アンナと聖母子なぞは本当に、万人が見て美しいとなるでしょうが(私も大好きです)、絵の素晴らしさに加え構図のおもしろさということではラス・メニーナスにつきるのではないでしょうか。

