見ている方向が違う
もうかなり前から有名になった言葉に「インフォームド・コンセント」というものがあります。この言葉は、我が国では、重病に罹った患者に事実を知らせて、その後の患者の生き方を選ばせる権利という考え方で捕らえられていますが、本家、アメリカではこの考え方は「医者」のためにある言葉であり、その理由は、訴訟社会アメリカでは患者に全ての情報を知らせておかないと、患者が亡くなられた後に、遺族が医者に対する職務忠実義務違反による訴訟を提起することを避けるために発達した、どちらかというと専ら医者サイドの予防策であることと理解されています。
つまり一つの事実・言葉や事象を巡っても、その社会が抱えている問題や事情によって、全くその意味が異なっていることは非常に多いと思うわけであります。
最近、所属する団体の倫理規定に関する仕事に従事する機会があったのですが、その際、ある種の驚きを禁じえませんでした。というのは、これでもかという位に分厚い倫理規定が用意されていたからです。非常に残念ながら、私どもの団体は最近の傾向として米国発の規則・規定を単純・無批判に翻訳出版する作業割合が太宗を占めつつあり、自分達の頭でものを考える作業は非常に少なくなっているような印象を受けます。「倫理規定」なる代物も、米国の倫理規定をある程度、アレンジして我が国の倫理規定であるとしているようなフシが伺われます。
そもそも、われわれの日常生活においては、倫理規定や法律等は、いにしえの昔から簡素をもって旨としていたのであり、こういうものを当事者間の絶対のルールとして尊ぶ風習はなかったと思います。この代表的な考え方が「和を以って貴しと為す。」であり、これ以上、簡単直裁に日本人の考え方を凝縮したものはないと思います。
COVENANTという神と人間(ユダヤ人)との契約概念を世界観の中心に置き、神キリストの前においては皆が三人称としてお互いの人格を平等視する考え方を基底とするキリスト教とは全く違った行き方ですが、その是非はともかくも、そのような歴史的な流れから、我々は物事の決着をつけるに際して、できるだけ法律や条理・規則・規定といったものは最後の最後に参照するようなものであり、重要なことは当事者間で決めてしまう、それでだめなら長老においで願う、というような考え方が民族のDNAにしみこんできたのではないでしょうか。
卑しくも法律(税法)解釈を職業としている私がこういうことを言うのは、自己否定にもなりかねないので、気がひけるのではありますが、我が国の実情はそのようなものではないでしょうか。
さてそこで本日の本題なのですが、法律は何のために作られているかということです。憲法が人権保障の体系であるということは自明でありますが、そのうえでも、やはり我が国では、法律というのはできれば見ないに越したことはないという考えが少なくとも今までは一般的ではなかったかと思います。
しかるに、先の倫理規定のように、米国(ここで対象は米国となってしまいますが)では、とにかくたくさん書く、ボリューム多く微に入り細に入り書く、というのが常識であります。これは米国では訴訟のときに免責を受けるために、たくさん書いているんだろうなと思うのであります。
最近の我々の業界でも、この傾向は著しく、全てがマニュアル化で常に文章に残すことを要求されます。これすなわち、将来、法廷に立たされたときでも充分に訴訟に耐えうるような資料作りを最初から要求しているわけです。
そもそも、仕事というのはクライアントに満足してもらうためにやっているのであって、将来、クライアントから訴えられたときのことを想定してせっせか、せっせか仕事をして何が嬉しいんだろうかと素朴に思うのでありますが、我が国のグローバル化というのは、結局、そういうことに引きずられる性格を有しています。いわゆるJSOXというのは結局のところ訴訟対策の方図でありましょう。
当事者間に信頼関係があってこそが、全ての仕事のベースであり、お互いに信用できないまま、何かあれば訴えも辞さないぞという考えを前提とする仕事の進め方は、我が国では決して今まで受け入れられなかったのではないでしょうか。
見ている方向が違う。
法律が全ての根本にあって物事を既定しているものとみるのか、法律は大事だけど、できればそれに頼らないで物事を解決したいとし、どうしても、だめなときにだけにそれに依ろうという基本的なスタンスが全く違うのではないでしょうか。
