仕事柄、英語を使う機会が多く、当事務所の理念でも英語によるコミュニケーションを目指しているのですが、正直に告白するならば、話し言葉での英語によるコミュニケーションで内容の半分でも伝わっていれば充分だと思っています。もちろん、コミュニケーションには話すことに加えて書く要素もありますから、話したあとに文章によって意思の不足分を補うことにより重要な部分は押さえていますが、それとても税法という共通の基盤を持った部分での話であり、これが感情やニュアンスの世界となるとお手上げというのが偽らざる感想です。
そもそも我が国では誤訳例は数多くあります。有名な例では「帝王切開」で、これははさみ(scissors)と帝王(シーザー caesar)との訳間違いという説もあるわけで(もっともシーザーがこの方法で生まれたので帝王切開となったのだというのが通説でありますが)、私が実際に経験した例ではこんなのがあります。
アメリカの大学で博士課程に進学していた女子学生と知り合いになったときのことですが、彼女は当然我が国の例にならって修士課程(master)を終わってから博士課程(doctor)に進学していると思ったら、実は学士課程を終えてからストレートに博士課程にあがってきたことが判明し、大いに驚いたのですが、逆に彼女に日本では修士課程を終わらないと博士課程に進めないのかと驚かれたわけであります。
後日、日本に帰ってきてから、調べたところでは、実はもともと、修士課程と博士課程はともに学士課程を修了した時点でどちらかを選択できるものであり、決して修士課程の上に博士課程が位置しているものではないのが本来の姿でした。つまり、明治の頃、我が国に修士課程と博士課程が導入される際に、文部官僚が訳を間違えて、修士が終わらないと博士にいけないとしてしまい、それが現在に至るまでも引き継がれているというのが真相のようです。理工系の学生さん、お疲れ様です。
こんなような実例はおそらく枚挙に暇がないはずです。要は完璧なコミュニケーションを目指そうなどというのは所詮、絵に描いたもちではないでしょうかということです。むしろコミュニケーションで大事なことは相手と向き合って話したり、顔色を伺ったり、声のトーンを直に感じることによって、多少の言葉での行き違いがあっても、それを補える、一種の信頼関係が構築できることにあるのではないでしょうか。
その意味からは、最近のインターネットによる文章だけによるコミュニケーションで事足りるという最近の風潮(このメール自体もそうなんですが・・・)は、コミュニケーションの過疎化をある意味、加速するのではという気がします。
知らない者同士が一緒の時間を会議や食事をして共有することにより、お互いの間に信頼関係が生まれる。これがコミュニケーションの基本であり、そもそもの語源であるcommunityと合致するものです。最近のインターネットによる匿名性を秘めた言葉だけによる意思の相互通行、もしくはすれ違いはもともとのコミュニケーションが意味するところとは違った概念だろうと思います。
