会計によるソフト・ウォー(ヘゲモニーを巡って)
今回は久しぶりに私の本職の話をします。
ごく簡単な背景知識
世界の会計の世界では、今まで米国が作成してきたUSGAAPという会計基準が事実上の世界標準の位置を占めていました。ところがこのルールが余りにも厳格なため、欧州を中心にIFASという団体(ロンドン本部)が欧州で起債・資本調達する場合の会計基準を独自に設定しました。
当初IFASの方は低調でしたが、多くの世界企業が余りに厳格なUSGAAPを嫌い米国資本市場離れを起こしたこと(資本市場離れには金利や通貨も関係していますが、専門家でないので省略)、なんで厳格なのにエンロン問題がおこるのか(これは正確には内部統制のお話なので会計ルールとは違うのですが)、更に各国の金融監督庁がIFAS支持を表明するに至り、米国は最近になってIFASに急速に接近しだしています。
で、日本はというと、相変わらず錦の御旗である世界第二位の経済大国ということで、独自の会計原則を堅持していましたが、いまや時代の趨勢からIFASへ収斂することを表明しています。
本 題
米国は最近、2013年6月一杯で米国基準(USGAAP)をやめてIFASに一本化することを正式に表明しました。
そうか、ではこれからは世界の会計基準はIFASなのねというのが議論の出発点なのですが、私はアメリカ人がそんなに簡単に自国の基準を捨て、なおかつ自分達の基準(FASB)の世界への影響力を失わせることに甘んじるとは到底思えません。
試みにIFASのWEBを調べてみますと、予想したとおりボードメンバー13名の構成はアングロアメリカン(=アメリカ+イギリス、オーストラリア)8名、大陸系のヨーロッパ人3名(フランスとスウェーデン)、アジア人2名(日本と中国)となっていました。 国籍が書いていないので職業と名前から類推した部分もありますが、おそらくこんなもんでしょう。
つまり、早い話がFASBがお引越ししたような印象なのですね。
こういう構成をグローバルというのでしょうか? やはり米国覇権主義の影響下にある世界のアメリカ式資本主義の下では会計ルールもアングロアメリカンのルールに従わざるを得ないというのが現実なのでしょう。
二つのことを想起しました。
会計を用いた緩やかな世界大戦の浸透、と
日本の立ち位置です。
会計を用いた緩やかな世界大戦とは突然ひらめいた造語なのですが、その含意はこういうことです。
戦争とは二国以上の国の間で、相手国の領土を軍事力や経済力、技術力で占領し、その後、相手国の天然資源や経済活動による果実たる富を収奪することを目的としていると思います。
ところが現代はイラクの例を見てもわかるように、アメリカのような軍事的なスーパーパワーを持った超大国でも相手国を完全に屈服させることは大変に難しくなっており、また戦争後のコストも馬鹿にならなくなっています。
これに対して世界の資本主義の枠組みをアメリカがルールメーカーとなることで自国の枠組みに帰順させ、そのことできわめて平和裡に世界各国の富を自国に吸い上げるシステムを構築するほうが、軍事力にかかるコストよりもはるかに少額ですむ。
会計ルール、米国系証券会社と格付会社、弁護士、公認会計士、米国式資本市場、米国式資本主義の考え方を教え込まれてきたMBA、会計の実務的なミッショネアとしてのBIG4。 これら全てから構築される包括的システムをもって世界の国を恭順させているのが、米国が意図するか否かにかかわらず、結果として実行・邁進している経済力、教育、文化力を背景としたソフトウォーそのものではないでしょうか。
軍事力は直接的に一般市民を殺害するため、明らかに非難が起こりえますが、こちらソフトウォーの方はそういう直接的な被害はない代わり、気がつくとアメリカ的資本主義の最終型−すなわちごく少数の金持ちとその他大勢の貧乏人−の2極分化構図になってしまうというものです。 しかしながら、ソフトウォーの場合には自国民にとっても一部の小金持ちになりうる人−経済的強者はしばしば社会的発言力も強い−を輩出することを約束するシステムでもあるため(米系証券会社の社員の高給は有名)、表立って反対することもできないまま、ずるずるとそうなってしまうというのが現実の姿ではないでしょうか。
翻って会計の話をすると、最近のIFASの議論は時価主義至上主義と経済的実態アプローチ原理主義によって特色付けられているのでしょう。
(以下続く)
【2008/06/30 15:13】
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美的感覚について(承前)
前回の美的感覚として西洋人と日本人との違いを書いたのですが、これに関連して昔、面白いことを読んだか聞いたかしたので、それを書きましょう。
確かドイツの低学年の美術の時間というのは論理を学ぶ時間であるというものでした。つまり、色彩三原則の下、ここに在る色を配置したらその隣にはこの色を配色しなければならないということを教えると聞いたことがあります(ドイツのこと知ってる人、間違いかどうか教えてください)。
これが正しいという前提で考えるとドイツ人に生まれなくてつくづく良かったと思うわけです。理由は敢えて付しませんが・・・
確かにドイツの画家というと、デューラーやクラナッハ、最近ではエルンストなんて人がいるけど、あんまり楽しくないですよね。「静謐」・・・こういう単語が浮かびます。
かたや、こういう論理的なアプローチは音楽には極めて有効なのでしょうね。ギターをかじっているので、先生から和声学の入り口の入り口を教えてもらったとき、例えば和音では同一音を出すと音がにごる(?)から、ジャズではそうならないようにコードを押さえる、でもってから、ジャズの場合のコードの押さえ方は難しくなるってなことを聞くにつけ、ああ、論理と感性(確かに同一音を重ねない方が気持ちいい)が結託してるなと思うわけです。
確かに音楽では、およそ楽聖はドイツ人(オーストリア人)が目白押しですよね。いちいちあげませんけど、そういう和声の伝統をワグナーがトリスタン和声でぶっ壊すというのも面白いです(このころワグナーは不倫をしていて、その心理的影響でこういう和声、つまり音に終わりがなくいつまでもだらだらと転調を繰り返しながら流れていくというのを音楽家の三枝さんがラジオで言ってました)。
そうなるとドイツ人に生まれたかったなと思うわけです。でも、才能ないからどっちでも同じね。
【2008/06/23 10:38】
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美的感覚の違い
2,3週間前に西武球場でバラのフェスティバルがあって行って来ました。
元来、お花には余り興味ないのですが家人に引かれて行ってみると、日曜日のせいもあり、かなりの盛況で、白いバラ(アイスバーグ)や赤いバラ等の鉢を買ってきたわけです。
で、会場は勿論、英国式庭園、英語で言えばEnglish Garden、・・・で、これを読むと問わず語りに”Sitting in the English Garden, waiting for the sun”と自然にビートルズの曲が頭の中を駆け巡る条件反射なのですが、・・・が中心に備え付けられ、そうこうしているうちに2時間も歩けば素人なりに、そうかそうか、バラは元々、中国とか日本が原産地なのにコンテンポラリー的には(不必要に英語使ってますが)、英国式な庭園に英国産のバラを英国風に飾りつけるのがわが国マダムの目指すべきゴールなのね、というようなことが、うすらうすらわかってくるわけです。
で、ここからはまったく個人の嗜好の問題ですが、やはり肉食人種の飾りつけというのはボリューム感がありすぎて日本人の美意識とは相容れないなぁと思ったわけです。
たしかにEnglish Gardenは美しいよ、でも満漢全席みたいなあのボリューム感は日本人にはツーマッチだなぁとつくづく思うわけです。
昔読んだ何かの本で、日本人のビジネスマンがニューヨークに転勤したとき、アフター5に現地のカルチャースクールに通って、各科目ほとんど優だったんだけど、デザインだけはだめだったと書いてありました。その理由はくだんのビジネスマン氏がたとえば部屋の内装デザインを書くと、かならず先生は後からいろいろ付け足すのだそうです。それがどうにも彼には納得できず、これは美意識の違いだからしょうがないと書いていました。
まさにそれと同じ感覚が英国式庭園なんです。一言で言うと、あまりにごちゃまぜにさぁどうだ的な感じでちょっと我々の美意識と違うんじゃない的な感じです。
これと似た感覚は西洋人のリビングルームに招かれるとわかりますよね。ところ狭しと(実際狭いところも多いんだけど)いろいろなものを並べ立てているあの感覚は、一言で言うと、無粋!
やっぱり日本人は何もない部屋に一輪挿しかなと思うわけです。
こればかりはロジカルな説明は不可能ですよね。
【2008/06/04 18:51】
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JUDOと柔道と
先日NHKで柔道の特集をやっていました。ご覧になった方も多いのではないでしょうか。
私は全くの素人なのでトンデモナイこと書いたらゴメンナサイ。
番組の趣旨は、日本の柔道がヨーロッパではフランスを始めとしたJUDOの勢いに押され気味であり、日本の柔道に対する基本的な考え方(技の掛け方や一本を取に行く姿勢等)が通用しなくなってきている。いまや柔道は日本を発祥とした柔道ではなくJUDOというヨーロッパを中心とした総合格闘技の一種に変容しつつあり、このままでは北京オリンピックで日本柔道が勝つことは難しいのではないかというものでした。
この番組は色々な示唆に富んでいて大変面白かったです。
その中でいくつか気がついた点を挙げると・・・・
柔道指導者の戦略性、政治性の欠如、
いつか来た道の繰り返し、
現場監督の無能、
文化に対するお金の掛け方、
我が国柔道指導者層の戦略性の欠如とは、結局、今日の事態を招いたのは日本柔道連盟(というかどうか知りませんが)が国際柔道連盟(という組織でしょうか)の中で地盤沈下したことが一番大きな原因なのでしょう。柔道に格別の思い入れのない私でも、この前の理事選から山下氏が洩れたため国際柔道連盟の中から日本人の理事がいなくなったことは聞いていて、その際、山下氏が大変に憂慮しているコメントを発していたことを覚えていますが、それは要するにこういうことを言っていたんだなと痛切に感じました。
詳しい理由は知りませんし、言い出せばきりがないのでしょうが、結果論で言えば、ここでも又、外の国とお友達を作らない、作れない我が国の体質が反映したということでしょうか。いくら本家本元と言っても、国際化したからには日本の意向が無条件に尊重されることを期待するのは能天気です。積極的に柔道が盛んな国と友好的な関係を図らないと、平たく言えば英語ができる指導者層が実際に海外に言って仲間とならないと、ヨーロッパの地続き通しの国のお仲間意識を突き崩すのは難しいのではないでしょうか。おそらくそんな努力はしてこなかったんだと思います。
もしも理事会で日本シンパの国を沢山作っていたならば、今のような、一本を取に行かず指導でも何でも兎に角勝ちに行けばよいというような、嘉納先生が聞いたら腰を抜かすようなことは理事会で断固阻止できたはずです。
いつも思うのは、ほんとに日本人は従順なんだなということです。ある日突然ルールが変わったら、そのルール変更について疑義をはさまず、とにかく新しいルールに自分を合わせようと必死になるんですね。これは嘗てスキーのジャンプ競技での突然の理不尽なルール変更や、BIS規制によって大打撃を受けるも唯々諾々と従った日本の銀行と全く同じ対応です。いつか来た道の再来です。
ここは例えば「ヨーロッパのJUDO、こんなものは柔道本来の精神から逸脱している。日本は今回の柔道大会はボイコットするが、同時に今後この競技をJUDOと名乗ることはわが国としては到底認められないので、JUDOの名前差し止めを国際スポーツ調停の場に申し入れる。」位の大芝居を打てないのでしょうか。
いくらヨーロッパでJUDO人口が増えたといっても、たとえばサッカーで手を使ってもOKとなったら、英国は黙っていないように、素人から見ても組み手をさせないJUDOは柔道のような柔道でないものに見えました。
どうして我が国柔道の指導者層はそれぐらいの知恵を働かせて喧嘩をしないのでしょうか。
ひとえにこの特質は日本人に染み付いたものだと思います。
象徴的だったのは無差別級で代表になった石井さんのコメントでした。彼は現場の人間の必死の対処策として日本の柔道のスタンスではもはや勝ちは望めない。ヨーロッパのJUDOスタイルを取り入れて、指導でも何でも兎に角勝ちを取に行くことにして日本代表となりました。この姿勢はプロとして立派だと思いました。しかしながら彼を選んだ現場の監督のコメントたるや「石井には勢いがある。(敗れた)棟田は経験があるが、石井のそれが勝っているので石井を選んだ。」というものでした。
そうじゃないだろ、石井は冷静にテクニカルな分析をして、ヨーロッパ式JUDOを敢えて選んだのであって、日本柔道スタイルを捨てることは彼なりに苦渋の選択だったろう。そういう状況分析ができず単なる「いきおい」という精神論でしか語れないこの監督って一体何者?石井がかわいそう、というのが感想でした。
最後にこの国の文化に対するお金の掛け方です。
フランスではJUDOの競技人口は55万人もいるそうですが、立派なスポーツジムを造り、国を挙げてスポーツを国家発揚の手段としていました。中国や昔の共産圏のようになると行きすぎでしょうが、やはりマルローが文化相を務めた国だけあって、スポーツや芸術が国の品格を反映するために大事な手段になると捉えているのでしょう。
かたやこの国では相変わらず誰も乗らない道路作りが盛んです。
一説では道路工事を引っ張ってくると、かなりのマージンが先導した政治家に流れるとも言われています。
「国敗れて道路あり。」どうして、もっと我が国が世界から尊敬されるような処に集中的にお金を使わないのでしょうか。
茶道、華道、書道、香道、合気道、剣道、弓道、日本画、能、狂言、歌舞伎等々、日本が海外から注目と尊敬を受けるような文化・芸術そして武道を戦略的に使おうとしないのでしょうか。あんなに中国に使ったODA、中国人でそのことを知っている人がどれだけいるやら・・・・
【2008/05/14 10:02】
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今回はとても短い感想です。
聖火リレー、何故、中国の旗が諸外国の沿道を賑わしたのでしょうか。
以下は事実誤認あったらご免なさい。
そもそも聖火リレーはギリシャから主催国への道のりにおいて、通過国の旗が振られて主催国との交流を図るというのが趣旨のような気が(勝手にしてます)。もう誰もが言っているヒトラーのプロパガンダは別にして。
しかるに今回の聖火リレーでは、例のチベット問題のために通過国の旗はないがしろにされ、チベットの旗と五星紅旗が入り乱れるという事態でした。
これっておかしくないでしょうか。
チベットはこの機会をとらまえて、チベット問題を世界の人々に知らせたいという動機から、沿道にチベット旗をたなびかせるということなのでしょうが、中国はどうもチベット問題をかき消すために中国旗を数で圧倒させているような構図に見えました。
チベットと中国をみれば、通過国の立場から見れば確かにチベットの方がオリンピックとの関連性は薄いのですが、そもそも通過国の旗が殆どみられなかったというのはやはり異常な事態でした。
【2008/05/02 17:05】
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