素人の考える構造主義
Levi Strausse
日本ではこの名前を見ると、当然のごとくジーンズを連想するわけですが、フランスを発信地としてかつて一斉を風靡した構造主義の巨人、レビィ・ストロースも同じスペルです。
構造主義とは哲学の一形態であり、以下にWIKIPEDIAから彼の主義を引用します。「その後、しだいに研究の舞台を親族関係から神話へと移していったが、1962年の『野生の思考』の最終章「歴史と弁証法」においてサルトルの実存主義を強烈に批判した。このことから、実存主義に対立しそれを乗り越えるものとして構造主義の思潮がときには過剰なまでにもてはやされる契機となった。・・・中略・・・彼の問題意識はサルトルの実存主義という主体偏重を批判し、 西洋社会における、西洋中心主義に対する批判的意識から出発している。・・・中略・・・どのような民族においてもその民族独自の構造を持つもので、西洋側の構造でその他の構造に対して優劣をつけることなど無意味だと主張した。」
実は前々から西洋の元気がなくなってきたのは、この思想による所が少なからずあるのではなかろうかと、私はひそかに思っているのです。ここでいう構造が何をさしているかを定義しないと、以下の議論は迷走するのですが私は哲学者でない。ということと、調べるのめんどくさかったので、その部分は「構造」であると逃げを打って一気にパスると。
ここでストロースが言いたかったのは、結局、西洋は西洋の、(すなわち東洋は東洋の)、各々の民族に基づく構造を有しており、どちらかの民族に優位性を付することはできないということを、婚姻制度を例にとって説明しているわけです。この考えは、おそらく西洋にとって衝撃的だったのではないでしょうか。ここ400年くらいの間は、長らく西洋が文化、法律、芸術、科学文明、その他すべての分野で地球上の他の地域に対し絶対的な優位性をもっていると信じて疑わなかった、その思想的な根幹(古くはジョンロックに淵源をさかのぼるのでしょうか)を根底から突き崩す思想体系が生まれたわけですから。
こんなこと(ある民族が他の民族よりも優位であると断定はできない)は、少なくとも鹿鳴館時代を経て、戦後社会に生きる日本人にとっては自明の理なのかとも思っていたのですが、先日、理科系卒業の友人と話していたら、「いや、そんなことはない。やっぱり、我々の現在の社会システム、技術体系は全て西洋から来たものの上になりたっている。だってニュートンが微積を発明したからこそ、現在の技術体系が成立しえたのであって、ジェンナーが種痘を発見したから天然痘は根絶したわけで、およそ理科系、医学系の学問については、いわば我々の社会は西洋人の作った基盤の上に乗っかっているに過ぎないと思う。」
たしかにノーベル賞をもらっているのは(英語での論文というギャップはさておき)、ほとんど西洋人ですよね。
ですから、そういう西洋人のひとりたるストロースが自己否定にもつながる民族の優越性の否定ということを学術的に説明したことは、余計にインパクトがあったのかなとも思ってしまいました。
確か島崎藤村だかだれか有名な文学者が、一時期、日本語(ひらがな交じり)は遅れているから、日本語はなくしてしまえ、フランス語を国語にしろと主張した話がありますけど、結局、日本人自身も鹿鳴館時代のDNAを引きずっているのかなぁ。
【2007/10/30 12:25】
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日本でも四半期決算がいよいよ定着化していますが、そもそもアメリカで四半期決算が定着したのはいつかを調べてみると、実は案外最近なのですね。
ものの本によればアメリカで四半期決算が義務づけられたのは1990年代前半ですね。つまりご本家アメリカでも四半期決算を開始してからわずか15年程度の歴史です。そしてこの制度が導入された背景には、米国流資本主義の考え方の変遷と深い相関関係があるようです。
最近50年程度のオーダーで米国流資本主義が生み出した数々の発明を俯瞰した場合、現在に至るも大きな影響力をもつものひとつにストックオプション(SO)を挙げることについて異論はないと思います。
SOは一言で言うとそれまでの資本主義のDE FACTO STANDARDであった「所有と経営の分離」を終焉させ、「所有と経営の一致」をアメリカ経済にもたらした制度と言えるのでしょう。バーリーミーンズで名高い「所有と経営の分離」とは、それまで創業家が経営者であった株式会社制度が、重化学工業等に代表される、装置産業的な大規模外部資本を必要とする大組織株式会社化することにより、資本家と分離したプロ経営者を必要とし、それらプロ経営者はいわゆるfiduciaryという考え方に基づいて経営に専念する。すなわち所有と経営が分離していたわけです。このフレームワークがアメリカでも長らく維持されていたのですが、SOの導入によってプロ経営者にも自社株を渡すことになり、ここに経営者に資本家の立場として行動するインセンティブが生まれたことになります。
事実、1986年頃の米国のプロ経営者の給与は1億円程度でしたが、SOの導入により給与には変化ないものの、株式による現物給与を10〜100億円単位で受け取ることが普通の風潮となったようです。
このような制度が続き得たのは、一般大衆が株式投資に資金を振り向けるようになったことにあるようです。その内実は自分が投資している会社の株価が上がってくれるならば、CEOはそれなりに報酬を受けても(それなりな額とは言えませんが)当然であろうということだったと推察されます。
さらに言えば、この制度に狂騒して会計粉飾による株価吊り上げが多発し、その結果がエンロン、アーサーアンダーセンの破産、SOXの導入という流れになっているのでしょう。ただ、これら渦の中心にあったSO制度は依然として存在しています。制度の廃絶という考えもあったようですが、やはり人間、欲の前には弱いのですね。
で、四半期決算は、株価が会社業績と離れたところで、中長期予測や短期の利益から瞬時に決定される仕組みを支えるのに、大変都合がよろしいということで導入されたようです。そもそも会社の利益を3ヶ月ごとにモニターすることに(株価以外)どのような意味があるのか不明なのですが、いずれにしてもこうすることで常に株価と会社利益とが連動するような仕組みが完成したわけです。
こうすることで結局、何がうれしいのでしょうか。よくわかりません。
思えばつい最近のFX騒動のように、実体経済とマネー経済の逆転現象の萌芽はこのころから起こり始めていたのでしょうね。
こんなことを続けていると、地球全体がソドムの結末を迎えないかという(最近の地球温暖化による異常気象は一種の警鐘なのかも)、そこはかとない不安を持ってしまいます。
【2007/08/22 17:45】
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前回の続き(アメリカ経済の・・・)は夏休みなのでお休みして、今回は「人の行かぬ処に花道あり」を書いてみます。
そもそもこの言葉は留学時代に証券会社に勤務していた友人が好んで使っていた言葉です。その含意は我々の頃も文化系学生の就職の花形は銀行であり、同じ金融機関でも証券会社は一段低いものと見られていて、就職ランキングは余り高くはなかったように記憶しています。友人はそういう会社に勤務することで、より多くのビジネスチャンスが得られるとの決意から(銀行受けたかどうかは聞いてませんが)、この言葉を使っていたようでした。
好きなことをやって生活ができればこれに超したことはないのでしょうが、そもそも好きなことなるものも、ホントに好きなことかどうかはわからない人が多いでしょうし、極論すれば、芸術や文学などのある程度先天的な才能がものをいう分野と違って、我々のごとくそういう才に恵まれなかった凡人には、どんなことでも、やり始めて続けていると、それなりにおもしろみややりがいを感じるというのが実際の処ではないでしょうか。
で、世の中で誉めそやされるものが、必ずしも自分が目指しているものとも限らないし、そもそも自分がやりたいこと自体が他者の視線を多分に意識して決定される位ならば、いっそのこと、そういうものは取っ払って、今あまり人気がなくても競争が激しくないような処に身をおいた方が、将来の自分の可能性をより多く引き出すことができるかもしれません。ただし重要なことは今後とも将来性が期待できないところはやめるべきでしょう。
逆の意味で言うと、例えばこれから大変な競争になる職業には弁護士があるはずです。今は知的職業の最たるもの、また最難関資格として人気がありますが、昨今の3000人合格時代の到来は、必ずや近い将来に供給過多を起こすはずです。世間ではこれからは我が国にも大訴訟時代がやってくるとか言う人もいますが、そういう文化風土は我が国には根付いていませんし、たかだか戦後60年くらいで、そこまでの変化を受け入れるとは到底思えません(例えば仏教が我が国に根付くにはおよそ600年位かかっているわけで、キリスト教が我が国にたとえ根付くにしても、まだまだ多くの時間がかかるでしょう)。つまり、供給過多→仕事がない、という事態が予測されるわけです。更に悪いことには、この職業には、会計士同様、定年がありません。換言すると、いつまでも年寄りが辞めないと言うことであり、若い人がチャンスを掴むことは並大抵の努力ではないはずです。かたや巨大化した会計士事務所同様に法律事務所も巨大化、サラリーマン化したパートーナー制度となっており、定年制もある代わりに激烈な競争となっているようです。天職として法律家しかないという人は別として、わざわざ競争の激しいところで自己実現を図らなくても・・・・・と思うのは余計なお世話でしょうか。
では、一体何が将来性があるかということですが、これは実は余りよくわからないのですね。そもそも人によって何が将来性があると規定するか違っているでしょうし(とにかく金が儲かればよい、お金はほどほどでもいいから世間から注目されたいとか、人によって基準が違うでしょうし)。でも、将来、転職することを前提として働くならば、気を付けて周りを見ていると、必ず、自分の周りで何かが代わっていく雰囲気が関知できるはずです。要は、そういう臭いや雰囲気を感じたときに、思い切って飛び込んでみる勇気があるかどうかが自分の将来を切り開く唯一の方法ではないでしょうか。今は昔と違って、ステロタイプに生きていくのでなく、自分の生き方の選び方ひとつでその後の人生が大きく変わってしまう世の中になったと思うこのごろです。
【2007/08/08 19:24】
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まだせいぜい20年くらいのオーダーでしかありませんが、昨今の米国流経済の世界への席巻度合は目を見張るものがあります。
この傾向はどうも世界中に及んでいるようで、最近はかつてに比べて海外旅行する機会が激減しているのですが、今年の3月にパリに行ったときは、前回(おそらく5年くらい前)と比べてあまりの変貌さに驚きました。旅行者の視点で言えば、パリの名門ホテルが次々とアメリカ系チェーンホテルに組み入れられていましたし、当然のごとくスターバックスがあり、パリのカフェでもじきに全面禁煙になるとのことで、アメリカが好きと公言する新しい大統領の下、かの国でも人々の生活パターンがアメリカ流に染められつつあるのかなと思った次第です。もっとも先日、フランス人と食事をしたときに、このことをぶつけたら、そんなことは絶対ないと否定していましたが。
ドイツには殆ど行っていないのですが、人に聞いた話だと、これもアメリカのファンドが不動産を買い漁っていてバブルが起きた(現在進行形かどうかは不明)。要はドイツ経済にアメリカ資本の占める割合が大変大きくなったとのことでした。
日本国内の商店街が東京を本店におく画一的なショッピングモールに代わってしまい全ての地方都市がミニ東京化してしまったように、世界中の主要都市がアメリカン・カラーに染まりつつあるようです。これでは海外旅行の興味も色あせますね。ああつまらない!
私自身が国際会議に出たときの経験でも、英語の下手なヨーロッパ人はフランス、ドイツ、イタリア。逆に英語が上手なのは北欧圏やベネルックス圏の人々でした。裏を返せば確固たる自国文化と歴史を持っている国ほど英語が下手でした。それが最近はフランス人でも上手に英語を話します。
で、これから何回かにわたり、非常に独善的かつ限定的な現在のアメリカ経済に関する私のミクロ的所感を書いていこうと思います。
【2007/07/17 19:18】
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私が尊敬する学者に宇沢弘文先生がおられます。先生の有名な著書に「自動車の社会的費用」というのがあり、お読みになった方も多いと思いますが、この本(もう20年以上も前の本だと思います)を私なりに解釈するとこうなるのであります。「禍福はあざなえる縄がごとし。」
最近は一時期ほどセンセーショナルに取り上げられなくなりましたが、ドイツにおけるトルコ移民問題などは、このことの適当な例だと思うわけです。
私の理解では、この問題は、一時期ドイツの単純労働の供給先としてトルコから大量の移民が来た。これら移民は確かに賃金が安かったのでドイツとしては当初の目的を達することができたが、時代を経て、これらトルコからの移民の第2世代がドイツ国内で育つにつれて、今度はドイツ語の方が不自由ないトルコ人が増えてしまい、彼らの処遇を巡っておおきな社会問題が起きているというものです。
このことは、結局、当初のトルコ移民の流入によって利益を得た企業と、第2世代のトルコ人の人口増加により引き起こされた諸々の問題の負担者(=畢竟、一般社会)が時間をまたいでずれているということです。
自動車の社会的費用の論旨は、確か自動車を製造するために自動車メーカーが払っているコストは、実は金銭的尺度では無限大として考えていた自然環境等へのネガティブな影響を考慮しておらず、結局のところ、そのような負のコストは社会全体が払うことになる、というような資本主義の原理的矛盾を批判していたようなところにあったと思うのですが、一時、我が国において起きた移民問題(現在は沈静化)も、結局、このような受益者と負担者のミスマッチに帰着すること大ではないでしょうか。
受益者にすれば、その負担は税金という形で既に清算されているということなのでしょうが、結局、税金では上に挙げたような将来の負担額までを含めることは勿論無理で、無理だからこそ、本当のコストより安い見かけのコストで社会が成り立ちうるのでしょう。そういう私たち自身が安いコストでの「現在の」製品の受益者になっているわけですから、やはり、規制なり何なりの経済性原則から離れたところから網をかけていかないと、この問題は解決しないのではないでしょうか。
つい先日のG7だかG8でドイツが行き過ぎたデリバティブ取引に規制をかけるべきだと勇気ある発言をし、当然のごとく米国等(はずかしながら日本も尻馬に乗っていますが)に握りつぶされたわけですが、このデリバティブなどに至っては、現在時点でも一体だれのためにあるのか、受益者は誰なのか(実需はまだしも)わからない商品の代表選手です。
論理ですべてが説明しうると考える西洋的な知の体系が限界点を超えているような気がします。
【2007/06/22 20:15】
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