私が尊敬する学者に宇沢弘文先生がおられます。先生の有名な著書に「自動車の社会的費用」というのがあり、お読みになった方も多いと思いますが、この本(もう20年以上も前の本だと思います)を私なりに解釈するとこうなるのであります。「禍福はあざなえる縄がごとし。」
最近は一時期ほどセンセーショナルに取り上げられなくなりましたが、ドイツにおけるトルコ移民問題などは、このことの適当な例だと思うわけです。
私の理解では、この問題は、一時期ドイツの単純労働の供給先としてトルコから大量の移民が来た。これら移民は確かに賃金が安かったのでドイツとしては当初の目的を達することができたが、時代を経て、これらトルコからの移民の第2世代がドイツ国内で育つにつれて、今度はドイツ語の方が不自由ないトルコ人が増えてしまい、彼らの処遇を巡っておおきな社会問題が起きているというものです。
このことは、結局、当初のトルコ移民の流入によって利益を得た企業と、第2世代のトルコ人の人口増加により引き起こされた諸々の問題の負担者(=畢竟、一般社会)が時間をまたいでずれているということです。
自動車の社会的費用の論旨は、確か自動車を製造するために自動車メーカーが払っているコストは、実は金銭的尺度では無限大として考えていた自然環境等へのネガティブな影響を考慮しておらず、結局のところ、そのような負のコストは社会全体が払うことになる、というような資本主義の原理的矛盾を批判していたようなところにあったと思うのですが、一時、我が国において起きた移民問題(現在は沈静化)も、結局、このような受益者と負担者のミスマッチに帰着すること大ではないでしょうか。
受益者にすれば、その負担は税金という形で既に清算されているということなのでしょうが、結局、税金では上に挙げたような将来の負担額までを含めることは勿論無理で、無理だからこそ、本当のコストより安い見かけのコストで社会が成り立ちうるのでしょう。そういう私たち自身が安いコストでの「現在の」製品の受益者になっているわけですから、やはり、規制なり何なりの経済性原則から離れたところから網をかけていかないと、この問題は解決しないのではないでしょうか。
つい先日のG7だかG8でドイツが行き過ぎたデリバティブ取引に規制をかけるべきだと勇気ある発言をし、当然のごとく米国等(はずかしながら日本も尻馬に乗っていますが)に握りつぶされたわけですが、このデリバティブなどに至っては、現在時点でも一体だれのためにあるのか、受益者は誰なのか(実需はまだしも)わからない商品の代表選手です。
論理ですべてが説明しうると考える西洋的な知の体系が限界点を超えているような気がします。
【2007/06/22 20:15】
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仕事柄、英語を使う機会が多く、当事務所の理念でも英語によるコミュニケーションを目指しているのですが、正直に告白するならば、話し言葉での英語によるコミュニケーションで内容の半分でも伝わっていれば充分だと思っています。もちろん、コミュニケーションには話すことに加えて書く要素もありますから、話したあとに文章によって意思の不足分を補うことにより重要な部分は押さえていますが、それとても税法という共通の基盤を持った部分での話であり、これが感情やニュアンスの世界となるとお手上げというのが偽らざる感想です。
そもそも我が国では誤訳例は数多くあります。有名な例では「帝王切開」で、これははさみ(scissors)と帝王(シーザー caesar)との訳間違いという説もあるわけで(もっともシーザーがこの方法で生まれたので帝王切開となったのだというのが通説でありますが)、私が実際に経験した例ではこんなのがあります。
アメリカの大学で博士課程に進学していた女子学生と知り合いになったときのことですが、彼女は当然我が国の例にならって修士課程(master)を終わってから博士課程(doctor)に進学していると思ったら、実は学士課程を終えてからストレートに博士課程にあがってきたことが判明し、大いに驚いたのですが、逆に彼女に日本では修士課程を終わらないと博士課程に進めないのかと驚かれたわけであります。
後日、日本に帰ってきてから、調べたところでは、実はもともと、修士課程と博士課程はともに学士課程を修了した時点でどちらかを選択できるものであり、決して修士課程の上に博士課程が位置しているものではないのが本来の姿でした。つまり、明治の頃、我が国に修士課程と博士課程が導入される際に、文部官僚が訳を間違えて、修士が終わらないと博士にいけないとしてしまい、それが現在に至るまでも引き継がれているというのが真相のようです。理工系の学生さん、お疲れ様です。
こんなような実例はおそらく枚挙に暇がないはずです。要は完璧なコミュニケーションを目指そうなどというのは所詮、絵に描いたもちではないでしょうかということです。むしろコミュニケーションで大事なことは相手と向き合って話したり、顔色を伺ったり、声のトーンを直に感じることによって、多少の言葉での行き違いがあっても、それを補える、一種の信頼関係が構築できることにあるのではないでしょうか。
その意味からは、最近のインターネットによる文章だけによるコミュニケーションで事足りるという最近の風潮(このメール自体もそうなんですが・・・)は、コミュニケーションの過疎化をある意味、加速するのではという気がします。
知らない者同士が一緒の時間を会議や食事をして共有することにより、お互いの間に信頼関係が生まれる。これがコミュニケーションの基本であり、そもそもの語源であるcommunityと合致するものです。最近のインターネットによる匿名性を秘めた言葉だけによる意思の相互通行、もしくはすれ違いはもともとのコミュニケーションが意味するところとは違った概念だろうと思います。
【2007/01/12 19:36】
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見ている方向が違う
もうかなり前から有名になった言葉に「インフォームド・コンセント」というものがあります。この言葉は、我が国では、重病に罹った患者に事実を知らせて、その後の患者の生き方を選ばせる権利という考え方で捕らえられていますが、本家、アメリカではこの考え方は「医者」のためにある言葉であり、その理由は、訴訟社会アメリカでは患者に全ての情報を知らせておかないと、患者が亡くなられた後に、遺族が医者に対する職務忠実義務違反による訴訟を提起することを避けるために発達した、どちらかというと専ら医者サイドの予防策であることと理解されています。
つまり一つの事実・言葉や事象を巡っても、その社会が抱えている問題や事情によって、全くその意味が異なっていることは非常に多いと思うわけであります。
最近、所属する団体の倫理規定に関する仕事に従事する機会があったのですが、その際、ある種の驚きを禁じえませんでした。というのは、これでもかという位に分厚い倫理規定が用意されていたからです。非常に残念ながら、私どもの団体は最近の傾向として米国発の規則・規定を単純・無批判に翻訳出版する作業割合が太宗を占めつつあり、自分達の頭でものを考える作業は非常に少なくなっているような印象を受けます。「倫理規定」なる代物も、米国の倫理規定をある程度、アレンジして我が国の倫理規定であるとしているようなフシが伺われます。
そもそも、われわれの日常生活においては、倫理規定や法律等は、いにしえの昔から簡素をもって旨としていたのであり、こういうものを当事者間の絶対のルールとして尊ぶ風習はなかったと思います。この代表的な考え方が「和を以って貴しと為す。」であり、これ以上、簡単直裁に日本人の考え方を凝縮したものはないと思います。
COVENANTという神と人間(ユダヤ人)との契約概念を世界観の中心に置き、神キリストの前においては皆が三人称としてお互いの人格を平等視する考え方を基底とするキリスト教とは全く違った行き方ですが、その是非はともかくも、そのような歴史的な流れから、我々は物事の決着をつけるに際して、できるだけ法律や条理・規則・規定といったものは最後の最後に参照するようなものであり、重要なことは当事者間で決めてしまう、それでだめなら長老においで願う、というような考え方が民族のDNAにしみこんできたのではないでしょうか。
卑しくも法律(税法)解釈を職業としている私がこういうことを言うのは、自己否定にもなりかねないので、気がひけるのではありますが、我が国の実情はそのようなものではないでしょうか。
さてそこで本日の本題なのですが、法律は何のために作られているかということです。憲法が人権保障の体系であるということは自明でありますが、そのうえでも、やはり我が国では、法律というのはできれば見ないに越したことはないという考えが少なくとも今までは一般的ではなかったかと思います。
しかるに、先の倫理規定のように、米国(ここで対象は米国となってしまいますが)では、とにかくたくさん書く、ボリューム多く微に入り細に入り書く、というのが常識であります。これは米国では訴訟のときに免責を受けるために、たくさん書いているんだろうなと思うのであります。
最近の我々の業界でも、この傾向は著しく、全てがマニュアル化で常に文章に残すことを要求されます。これすなわち、将来、法廷に立たされたときでも充分に訴訟に耐えうるような資料作りを最初から要求しているわけです。
そもそも、仕事というのはクライアントに満足してもらうためにやっているのであって、将来、クライアントから訴えられたときのことを想定してせっせか、せっせか仕事をして何が嬉しいんだろうかと素朴に思うのでありますが、我が国のグローバル化というのは、結局、そういうことに引きずられる性格を有しています。いわゆるJSOXというのは結局のところ訴訟対策の方図でありましょう。
当事者間に信頼関係があってこそが、全ての仕事のベースであり、お互いに信用できないまま、何かあれば訴えも辞さないぞという考えを前提とする仕事の進め方は、我が国では決して今まで受け入れられなかったのではないでしょうか。
見ている方向が違う。
法律が全ての根本にあって物事を既定しているものとみるのか、法律は大事だけど、できればそれに頼らないで物事を解決したいとし、どうしても、だめなときにだけにそれに依ろうという基本的なスタンスが全く違うのではないでしょうか。
【2007/01/04 10:28】
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日本に敵対的買収(TOB)は根付かない
私は自信をもって敵対的買収は日本に根付かないと断言するものであります。
理由は至極簡単です。日本人が農耕民族であるからです。
いや私の周りには一人もお百姓さんいないよという声が聞こえてきますが、敢えて問いたい。ではヨーロッパやアメリカで毎日狩りして生活している人がどの位いるでしょうか。私の人生に知り合ったアメリカ人でハンターはいなかった! でも彼等は狩猟民族と呼ばれているがごときです。
私の友人が海外赴任していたときレバノン人の知り合いができたそうです。彼等にとって最も価値のある生活は「自分で物を作るのでなく、人の物を取ってきて儲けることである。」というような意味合いのことを言われて、ぶったまげたと言ってました。
中東の人々を欧米の人々と一緒にできないでしょうし、中東で狩猟はできないかもしれませんが、要はその民族が持っている価値観は少なからずその歴史に刻まれた生活様式から規定されるのではなかろうかと言うことです。
我が国は肥沃な土地に恵まれ、毎年、稲さえ作っていれば必ず収穫があり生活の心配なく暮らせる。そういう中で、隣人達で協力して物を作り上げていく文化が自然とできあがって来たのだと思います。農業は共同作業なくしては成り立ちえません。そこでは自ずから周りの人を気遣う配慮、人のものをかっぱらうというような考えからは最も遠いところにあるのと思います。唯一汚点としては、この前の戦争で人の領土をむしりとるようなことをやってしまったことがありますが、これは又、別の機会に書きます。
そういう中で祭政一致の権力者として天皇がいて、現在では祭事の儀式として稲作の刈り取りなどをなされていますが、ともかくもそういう稲作文化が我が国文化の根幹といってもいいのでは・・・・
で、そういう我が国文化に対して、略奪や強奪について倫理的な問題を持たないようにも思える西欧文化(古くは十字軍、バイキング、中近世史的には植民地支配)では、既にできあがったものを簒奪することについては、われわれが持つほどの倫理的禁忌を持たないのではないでしょうか。そのための安全弁としてもキリスト教がある種の役割を果たしていたことの可能性も排除できないのではないでしょうか(アジアや南米を植民地化する際にキリスト教神父が大きな役割を果たしていたことは事実でしょう)。
お話を現在に移すと、我が国では、長らく合併時に交付金等を払って、表面上は対等合併にする等のコスメティックスを行ってきたのは、やはり一方が他方を力で飲み込むという狩猟的な発想に嫌気があったからでしょう。
そういう中、昨今の敵対的TOBの流行に対して、これが世界の流れだから(ホント?!)、そうしないとグローバル競争に打ち勝てないからという、何か根拠ないけど、グローバルと言われたらしょうがないな、というようなあやふやな感覚で、日常茶飯事的に行われることは恐ろしいことではありますまいか。
私は友好的TOBまで否定しているものではありません。ただ米国の歴史実例をみてもわかるように、敵対的TOBで金銭的に得したのはウォール街の投資銀行や一部の乗っ取り屋であって、会社の従業員や産業が活性化したということはないんではないでしょうか。
であるので、日本では敵対的TOBは一時のブームで終わると断言するものであります。
【2006/12/06 14:36】
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英語ができる会計士はどうして少ないのか
海外の会計士、とりわけ米国の会計士と話すと日本の会計士の数が少ないことをよく尋ねられます。
現在、米国の公認会計士は約30万人。対して日本の公認会計士は約2万人です。これに無理やり税理士約6万人を加えたとしても約8万人ですから、単純な数の対比をすると確かに少ないのかもしれません。
ただし、米国会計士の場合は職域の範囲が日本会計士よりずいぶんと広いので、単純な比較は余り意味がないかもしれません。一例を挙げれば、米国では上場していない企業であっても銀行に借入の申し込みをする際は必ず公認会計士の監査を受けなければなりません。このマーケットのみでもかなりの会計士の糊口を満たすことができるはずです。
この業界も以前から国際化の波が押し寄せてきて、いわゆるビッグ4以下の規模の会計事務所も各々国際的なネットワークを構築したく、その際、どうしてもはずせない日本で会計士事務所と組もうするとき、組む相手のミスマッチに悩まされている現状があります。
アメリカでは売上高が上位10社位までの会計事務所の場合、ビッグ4以下の中堅規模でも1社当たり事務所の売上は年間4〜500億円くらい、会計士の数もプロフェッショナルで100名以上、スタッフの数で1500名位がざらであります。
これに対し日本の場合、そもそもビッグ4以外の会計事務所の売上を把握すること自体が難しいのですが、業界的な感じで言うと、おそらくスタッフ200名以上を抱えている会計事務所は全国で10社なく、売上も多くて50億円程度ではないでしょうか。
ちなみに今後は法定監査の分野で、会計士協会(金融監督庁?)が要求する監査サービスを行うためには、スタッフが最低100名は必要と言われていますから、今後は100名以上を抱える会計事務所が続々と出てくるはずです。その理由は最近の監査不祥事に対する業界の対応として、会計士協会による会計事務所(監査法人)に対する内部調査が大変厳しいものになったからです。会計事務所側ではその対応に大変な手間とお金がかかるため、すくなくとも100名程度のスタッフを抱えていないとコストを吸収することはできないでしょう。
ところで−ここからが本題なのですが−これら我が国大手準会計事務所の一番の特徴は、圧倒的にクライアントは国内企業であり、海外クライアントには殆ど全く興味がないという特徴を有しているのです。
このため先に挙げたようなアメリカで中位程度の規模を持つ会計事務所が、日本でそれに見合う大きさのパートナーを探そうとしても、その相手がいないという現実に直面して困惑するという状況がずっと続いています。
日本の準大手事務所の絶対的売上高が米国と比較にならないのは、また別の問題ですが、例えば従業員200名規模の会計事務所でも海外に興味がない理由はとても簡単です。
海外のお客様相手に無理に英語をつかわなくとも、充分に国内のお客様だけでやっていけるからです。
現在、世界の先進国のうち、人口一億人以上の国は、実にアメリカと日本だけです。
日本は、もういずれ中国に抜かれるでしょうが、依然として世界第2位の経済大国であり、国内市場だけで充分に食っていける企業が山のようにある国だということです。そういう背景を抱えているので、ひとり会計業界だけが例外というわけでなく、まず、手っ取り早くお金になる国内市場をメインターゲットにしているのは、ごく自然な流れなわけです。そういう点からは、国内市場が余りに小さいがために、始めから海外進出を目的としなければならないヨーロッパ諸国とは、英語に対する必要度合が異なるのもむべなるかなです。ちなみにノキアの本社があるフィンランドの人口は500万人です。
そういう国内事情を抱えている我が国が、どうして国際化の波に否応なしに巻き込まれなければならないのかはきわめて疑問であります。
話がそれますがSOX(内部統制)にしても、国内市場で資金調達して国内の消費者に製品を供給する企業、つまり海外で資金調達したりする必要のない企業までもが、この規則に従う理論的根拠があるのでしょうか? 私的には疑問であります。
話を戻すと、そういう事情があるが故に、我が国の実態というものを踏まえて、そのことを忘れずに、なおかつ海外の人たちとお付き合いすればいいのではないでしょうか。そのような自覚から、初めて節度や自分達の基本スタンスが決まるのだと思います。
英語ができる会計士が少ないのは当然です。ただし、今後はこれではやはり困ることになるので、英語を話す会計士はいずれ増えていくでしょう。
【2006/11/21 19:52】
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